東京都にパートナーシップ制度を求める署名が。
change.orgで、
「東京都にパートナーシップ制度の創設を求める署名」
が開始されています。
何のしがらみもない自分は即署名させていただきました。
このブログをのぞいてくださっているみなさんも、ぜひ、この署名の文章をお読みください。そして、共感いただけたなら、賛同していただけるなら、署名をお願いしたいです。
私にはかつて、同性を愛する友人がいました。
当時は今よりももっと、性的指向や性自認のカミングアウトに高い高い壁があり、その人物が同性を好きになってしまうということがもし明るみになってしまうと、学業の継続や仕事選びにも影響が出てしまうようなこともありました。
その友人はそのことをわかっていたために、学校を出てからは同性を愛する人たちが集まるコミュニティに居場所を作り、けれどもそこからどうしても外の世界には怖くて出ていけないんだ、実は親にも勘当されて家に帰ることもできないんだけどね、ということを淡々と話してくれたことがありました。
彼には精神的に不安定なところがあり、薬を飲み過ぎてしまったり、連絡が取れなくなってしまったり、自殺未遂を起こしてしまうこともありました。
心配する友人や周囲の人間は、所詮は他人という立場なので、彼が入院などをした際には全く消息がわからなくなります。その代わり、彼の本当の家族には病院から連絡が入っていたのかもしれません。
彼とはその後、連絡が取れなくなりました。ご家族に理解されて、性的指向も尊重され、暮らせているといいのですが、確かめることはできていません。
これは日本の話です。
私はかつて、同性パートナーのカップルと一緒に暮らしていました。
それは大学卒業後、カナダとニューヨークで音楽の武者修行をしていた時のこと。
カナダでお父さん&お父さんの一家に間借りして、その周囲にもたくさんの同性パートナーが働いたり闘病をしたり子育てをして普通に暮らしていることにある意味衝撃を受けました。
何が衝撃というのは、お父さん&お父さんの一家や、お母さん&お母さんの一家が、お父さん&お母さんの一家と入り混じり、何の説明やことわりもなく、ただ「当たり前の家族の一つの形」としてそこにあったからです。
日本でもし、同じような状況があれば、そこにいる子どもなり大人なりが、こそこそと隣にいる誰かに尋ねているかもしれません。「ねぇ、この家って、どうしてお父さんが二人で、お母さんがいないの」と。日本では、家庭というものはお父さんとお母さんがいてそこに子供や祖父母がいるというのがスタンダードであり、それ以外の形はほとんど目にすることがないからです。
お父さん&お父さんのうちお父さんAは、弁護士さんでした。お父さんBは、芸術家で、HIVのポジティブでした。
お父さんBは、薬を飲んで自分の体調と折り合いをつけながら、自分の人生を豊かにするために、と週末ごとに手作りで湖の辺りにログハウスを作りに出かけていました。お父さんAは僕にはそれは手伝えないよ〜、僕は頭脳派だから!と冗談を言いながら、お父さんBの体調を労り、体の免疫力を上げる食事を作ったりして、二人は支え合いながら暮らしていました。
これはカナダの話です。
日本に帰国してから、LGBTqの当事者複数名から、カナダ移住を考えているという話を聞いて、とても素直に納得できてしまったのは、当事者にとってその性自認や性的指向を日本ではできるだけ隠すようにして過ごさなければいけなかったのに、カナダでは空気のように受け止めてもらえる暮らしやすさがあるというのを知っているからです。
今は2021年、本来であれば2020東京オリンピックが開催された翌年であるはずの年です。
そんな年に、首都東京都に対して、当事者の方々から、パートナーシップ制度の創設を求める署名が立ち上がっている。
そのこと自体が、悲しいかな、未だ多様性の理解において世界の中でも立ち遅れている日本という国の現実です。
多様性の実現とは、自分とは違う存在への理解です。
アメリカでは昨今Black lives matterが一大キャンペーンとなりました。
肌の色で目の前の人間を自分とは違うものとみなし、敵対することから、
やがて人種と人種のぶつかり合い、差別や侮蔑、暴力が拡大する中で、
次第にこのキャンペーンは「どの人種も重要なのだ」(黒人だけではなく、もちろん、白人だけでもなく。)という大きなうねりとなって、文化、ファッション、音楽、アート界も飲み込んで世界へと広がっていきました。
性自認や性的指向についても、「自分たちと違うから」という理由で認めない、認めてはいけない、何かが脅かされる、と考えることは大変一方的で幼稚かつ誤った考え方と言えます。
これは家庭環境や外的要因によりその性自認や性的指向を選択するというものではなく、
生まれつき、そのように生まれているからです。
そのように生まれついているものを、認めるも認めないも、本来は社会や他人が議論する余地があるはずがありません。
また、そのように生まれついているものなので、それを認める認めないが、その人の性自認や性的指向を変貌させることはありません。
認めることが、同性を愛する人を増やすことになる、というようなものではないのです。
さまざまな無理解や誤解から、今も職場で、学校で、家庭で、苦しんでいる人たちがいます。
本当の自分をさらけ出すこともできずに、普通の婚姻であれば認められるはずの権利すら認められずに、息を潜めてじっと我慢している人たちがいます。
一緒に声をあげてもいい、という人は、ぜひ署名をお願いします。
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